2007年01月26日

マスコミの行き過ぎる報道姿勢

先日、テレビの報道番組を見ていると、

ある、最近起こって話題の凶悪犯罪の容疑者に関する報道がされていましたが

もちろん、犯罪者を擁護するつもりは全くないのですが、

犯罪者のレッテルを一度貼られた人に対して、

マスコミは、これでもかと、

いかに、その人が、昔から、悪いことをしてきていたかとか、

こういう悪い要素を持っていたとか、とてつもなく悪い人間だったんだと、

本当にそうだったかどうかを、しっかり見極めること抜きに、

とにかくそれを強調したいというようなそういう報道姿勢に感じられたのでした。



その中身は、

その容疑者が、被害者と初めて知り合った飲み会において、

トイレに行く際に、誰かに介抱してもらい、それを切っ掛けに親しくなろうと、わざと倒れたようであった

とか、

誰かが助けに来るまで、わざと、ずっと起き上がらないでいたように見えた

とか、

あくまでも、実際そうかどうかは断定できない話なのですが、

ほとんど、そうであるかのように決めつけるかのような報道がされていました。



昔から、そういう、計算高い、悪い人間だった。と報道したかったのでしょう。

しかも、その日のその事件に関しての報道は、その話題だけを、とって付けたかのように報道してましたが、

どうも、注目されていて、視聴者が関心あるニュースなので、この事件を番組内で取り上げたいのだが、

目新しい話題が入手されてない中で、わずかに一つ、そういうネタが関係者の取材の中であったので、そういう取り上げ方をして報道しよう、

と、無理矢理、そのようにアレンジして報道したように思えました。



その犯罪自体、とてつもなく重い罪であって、その罪への然るべき償いがなされなければならないのは確かなことなのですが、

今、その事件の解明が、容疑者の自供などを通してなされている最中にあって

そのような事件の根幹から外れたような小さなことを興味本位的に報道して、いったいどういう意味があるのだろうかと、

そのような、しかも推測の話で、世の中に何かプラスになるのだろうかと、

考えさせられました。



悪いというレッテルを貼られた人は、なすこと全て、そういえばこんな事言ってた、あんなことも言ってたような、とか

事実無根であっても、そのように捉えられてしまうケースがあるのです。

容疑者は、既に逮捕されていて、今となっては、テレビ局や視聴者にとっては、単なる、ゴシップねたに過ぎない、

枝葉末節的な話題を重要事項のようにして、しかも、根拠のない推測で報道する姿勢は、

これまで過去、多くのマスコミが、ついつい、行き過ぎてしまった報道で、

例えば、松本サリン事件で疑われた方のように、

世間の人々に大きな影響を与え、時と場合によっては、特定の人や団体などに、知らない所で大きな被害を与えてしまった、

その原因をつくる報道をしてしまっているということに、もっと敏感、繊細にならなければならないと思います。

今回の報道内容については、真実が、確かに報道された通りであった可能性も当然ありますが、

はっきりしない中での、断定的に近い報道は、今、あげたような、被害者を生む原因となる報道姿勢であると感じたことと、


一度、悪のレッテルを貼られた人間は、

根拠がなくても、なすことすべて悪いと決めつけてしまっていい、

そんなような風潮を、社会全体に蔓延させる原因にもなりかねないと危惧させられたものです。

納豆報道もそうですが、もちろん同時に、マスコミに踊らされない私たちの姿勢も大切だと痛感します。






posted by 大空巡夢(人間力探求家) at 19:06 | TrackBack(0) | 感じたこと
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