2008年07月18日

誰かに自分の言動や思いまでも縛られる必要はあるのか

ふと思った。誰かに自分の言動やましてや思いまでも縛られる必要はあるのかと。

例えば、今日会った誰かに。例えば、以前知り合った誰かに。例えば、私の家族からであっても。



時折、何かを盾にして、考えが違う人が、自分の言動に縛りをかけようとすることがある。

この世の中では、

ある主張をすると、それが自分の考えと違う時、人を批難する時がある。



もう、私はある時から、

論争なんて愚かなことをするのをやめた。 

私の主張はこうである。

自分はそう感じるんだ、

感じてしまうんだからしょうがないだろう、と。

誰が何と言おうがそう感じてしまうんだから、と。

あなたとは、感じることが違うだけの話。

それがいいかどうかはわからない。

けど、私はとにかくそう感じるからそうなんだ、というだけ。それを違うと言われても、感じてしまうことばかりはこれは、変えようがないんだ、と。



でも、

一度反旗を翻した人は、自己正当化するために、自分が正しくて、相手が悪いという材料を必死で探そうとする。

そして、やれ、ああだ、こうだ、と、ある時は、私とは

別個の脈絡の薄い材料を結びつけて
さえも、

また、ある時は、全く私とは違う

第三者に中傷非難を影でまき散らししたり
さえもする。

時には

正義さえも振りかざしたり
もする。



しかしそれらも結局は

自分の身を守りたいがため
でしかなかったりする。

自分に何も降りかからなくなれば、身を呈して、そのことの真偽をとことんまで、突き止めようなんてしはしないからだ。

自分に都合のいい材料をただ探すだけでしかないのだ。

初めから折り合いを付けるような意志なんてないのである。

一度作った思い込みを自分を否定して、築きあげたプライドを捨ててまでも簡単に変えたりはしない。

信念や主張が強い人であればあるほどそうだから、最初から、

争うこと自体が愚か
なのである。

そんなことに対して躍起になって、また、正しさを主張したって、

わからない人にはわかりはしない。


だから遠巻きに見ているか、人によっては、両方にいい顔をして、良識ある人を演じようとするだけの話である。



もう縛られたくはないから、

感じることに正直に進み続けたい。


しかし誰の言葉にも耳を傾けないような自分であってはならない。

常に周りから学ぶ姿勢を持ちながら、あとは

ひたすら自分の心を磨いて、内面から輝かせていくだけだ。


感じることが変わることもあるだろう。

自分が間違ってたと感じるかもしれない。



いずれにせよ、

人の心を誰かが縛ることなんてできはしないのだから。







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